『芸術起業論』 著者:村上隆

もともと芸術家の村上隆さんには興味があり、
たまたま200円コーナーでこの本を見つけたので買って読んでみました。


本を手にとって3秒くらいでカゴに入れたまさに衝動買いだったのですが、
経験的にすぐ判断が下せるものというのは直感が働いていて
結果的に良い買い物であることが多い気がします。
(一般的には逆に捉えられていますが、自分は普段あまり衝動買いをしないので、
逆に衝動が起きた時は何らかの直感が働いたと捉えて大事にしています。
ただ、モノ自体を勘違いしている場合(モノがイメージと違った場合)はミスすることもありますが。。)

村上隆という人



村上氏は日本人の芸術家に珍しく「正直な人」だと思います。


それは、優れた芸術作品を作りたいという自分の目的に対して、
嘘をつかず、対峙すべき現実としっかりと向き合っているという意味です。
優れた芸術作品を作るための要素は何であるか、それをちゃんと見据えている人です。


一般的に、良質な作品を作るのに重要なことといえば、
自らが作った芸術作品を鋭く批評していく姿勢を持つことです。
村上氏も、それを当然のこととして肯定しています。
しかし、それだけでは不十分であると言い、今の日本美術界の意識に欠けている
お金というものの存在の重要性について強く説いています。


「正直な人」という言葉の意味は、特に彼の"お金に対しての認識"から読み取れます。


お金は芸術家にとって「(自由な)制作活動の継続」「一つの(客観性を含んだ)価値基準」
という意味において、避けることが出来ない重要な存在です。
しかし、日本では一般的に芸術とお金・ビジネスは相容れないものとして
捉えられている節があります。特に日本の芸術業界は、それらを敵視しているようにも見えます。


そのような日本の美術業界に対して村上さんは違和感を抱きます。
著書内でも

芸術の力を生かしたいなら、金銭が要るという事実から、どうして目を反らしてしまうのでしょう。
ぼくは、三十六歳になる頃までコンビニの裏から賞味期限の切れた弁当をもらってくるような、
お金のない時期を経験しました。(中略)
お金のない時の動きとはそういうものです。何をするにも異様に時間がかかる。
そういう時間を縮めるために金銭の力が必要になるのです。
金銭があれば、制作する時間の短縮を買えます。(中略)
芸術には金銭と時間が必要という当たり前のことを貧乏の中で実感したからこそ、
ぼくはお金にはこだわるようになりました。

金額は、評価の軸として最もわかりやすいものですよね。
万人に分かる価値基準を嫌がる人は、
「誰にでもわかる数字で評価されると本当は価値がないことがバレてしまう」
と恐れているとも言えるでしょう。
作品の価格や価値を曖昧にしてきたからこそ、戦後の日本美術は悲惨な状況になったのです。

と語っています。


お金の重要性を認識しない業界・芸術家に対して、
そのことが芸術作品の質の向上を制作環境・価値評価の点から阻害していると指摘しています。


このロジックは極めて単純なものですが、このことが認識できていない人は、
特に社会と直接の関わりが少ない美術関係者の中にはかなりの数いるのではないでしょうか。


氏は金の亡者のように語られることもありますが、実際のところ彼にとってお金は手段であり、
その最終的な目標はあくまで「優れた芸術作品を残すこと」にあるように思えます。
そうでなければ、敢えて金銭的リスクの高い芸術の道を志したことが説明出来ないはずです。

村上隆が海外で成功した理由



村上隆が海外で成功した理由。


それは、作品の良さをしっかりと伝えることが出来たこと。
そして、レベルの高い相手と対峙するに足る作品の価値とロジックを構築したことにあります。


氏は著書内で、一貫してそのことを伝えています。


欧米の美術市場において重要視されるのは、作品が提示する「新しい概念」です。
作品はそのような「概念」や「観念」を表現したものであり、
そこに求められるのは知的な仕掛けやゲームである、と語っています。
表現された作品に、日本でありがちな"見た目がきれい"といった感動は必要ではなく、
作品の価値はあくまで「概念」への評価によって決まるとされます。


日本では自分のことを語ったり、作品について多く語りすぎることを嫌う傾向がありますが、
そもそもその作品が持つ「新しい概念」が何かを理解してもらえなければ、
本場である欧米市場において評価されることはありません。
作品が持つ背景と意味合いを説明することが求められる市場だということです。


評価の軸となるその「概念」も、なぜそれが「新しい概念」だということができるのか、
どのような点で新しいのか、が明確にされていなければなりません。
そのためには現在の美術に至るまでの歴史、特に村上氏の場合は日本文化の歴史など
新たな概念に関連すると思われる要素を拾い上げ、関連付けることで概念を相対化していく必要があります。

新たな概念:スーパーフラット



氏が発表した"スーパーフラット理論"は、
日本のオタク文化を海外に伝えたものだと捉えられています。


村上氏は、日本の歴史的美術と現代のオタクアートには共通点があると言います。
それは、絵の要素がバラバラに存在しており、遠近感が成立しておらず、
平面的で、絵を見る際の視点(カメラアイ)が一つに定まっていないという点です。


従来、日本美術は西洋美術と比較すると「平面的で奥行きがない」という批判にさらされていました。
それは、西洋美術の発展の基礎となった透視図法を利用した絵画に比べて
遠近感に乏しく写実的でない、という意味合いで使われていたようです。


実際に日本の絵巻物を見ると、斜めから見下ろすような構図が多いですが
例えばその中で、距離と人の大きさの関連を見たときも
遠近感が正確に表現されているとは言い難いと思います。
(参考: 絵巻物データベース http://kikyo.nichibun.ac.jp/emakimono/ )


しかし、氏の"スーパーフラット理論"は、その平面性こそが日本の伝統であり
現代にも受け継がれている日本的アートの特徴だとしています。


西洋的な透視図法を利用した遠近感の表現は、
見る視点=カメラアイを限定し、そこからの見え方に従って絵の要素を描きます。
それは、イメージ的な重要性よりも実際の見え方を重視するということでもあります。
そのため、絵の個別の要素に対するイメージ的な認識を阻害してしまうという弊害もあります。


一方で、日本的なアートはそのようなカメラアイの限定を解くことで
その絵の「一つ一つの要素が与えるイメージ」を重視した描き方が可能になっています。


たとえば、デフォルメされたマンガのキャラクターは、
目や顔が実際よりも大きく描かれていることがあります。
これは、目や顔といった部分は人が実際に他人を見るときに重要視する部分だからです。
そのイメージ的な認識・重要性に基づいて描くと、
目や顔が大きく描かれるなどといった、写実的という意味のリアリティは薄いが
個人の内面的イメージという観点からは逆にリアリティが増した絵が描かれることになります。
その結果がデフォルメされたキャラクターであり、
イメージを重要視する日本的アートの特徴を表現したものということになります。


また、日本のマンガには空白が多いとも言われます。
これは本来空白に(写実的にするならば)描かれるべき要素も、
個人の中のイメージにおいて重要性が薄いと捉えられるのであれば
必ずしもそこに描く必要がない、という認識が表現されたものだと考えられます。


これらの例のように、日本の平面的アートには絵の要素に対する一つ一つのイメージ、
カメラアイを限定しないことで生まれた遠近感を無視した多数の視点が存在しています。
それら一つ一つをレイヤー(透明な板)として捉え、
最後にそれらを一つのレイヤーに結合し一体化させたもの、
それが単なる平面=フラットを超えた"スーパーフラット"である、としています。


日本の階層性の薄さもこれに関わっているとか、
3Dのフィギュアもこの上記の観点から見ると"スーパーフラット"と言えるとか、
その他にも色々なことが批評家から語られているので
興味がある方は調べてみると面白いかもしれません。


こういった「新しい概念」をロジカルに構築して、しっかり伝えていくこと。
それが村上隆氏が海外で認められる要因となったことは間違いありません。

作品「727」



個人的には、村上氏の「727」という作品が好きです。
(参考:「727」http://www.kaikaikiki.co.jp/artworks/eachwork/work_727/ )


日本の伝統的絵画の上にデフォルメされた目を持つ現代のオタクアートが
波にのって融合しつつ迫っていく感じがいいですね。


自分はもともとアートには全く興味がなかったのですが、
村上氏が前にTVに出たりCourrierJaponに載っているのを見て
面白そうだと思って以来、少し興味が出てきました。


最後に、このエントリを書くために本・ネットで色々調べていて
たまたま見かけたblogの記事が良いなと思ったので紹介しておきます。(全く別の話です)


現代アートがワカラナイ秘密 - 時を刻む
http://contemporaryart.blog34.fc2.com/blog-entry-41.html




by Aricororisty