自分の読書を振り返る

最近、だんだんと本が邪魔になってきました。


いつも読み終わった本は、PCを置いているL字型の机の下に置いているのですが、
これが少しずつ足の行き場を侵食してきているという。。
以前BookOffは素晴らしいです的なエントリを書きましたが
ここで本のレポートを書いている通り、その後も地味に読書は続けていました。
試しに数えてみたら、あの後の読書量はいつの間にか50冊を少し超える位になっていました。


自分はもともと遅読派で、たくさん読んで多くの情報を仕入れるというよりは
読みながら色々ごちゃごちゃ考えるタイプなので、これでも少し驚いています。


大事だと思った部分にはペンで線を引き3色に分けながら読んでいるので、
それも読むのが遅くなる原因ではあるかもしれません。
とはいえ、この過程を踏むと大事な部分の内容の残りが全然違う上に
後で見直したときも自分が何を考えていたか思い出すきっかけになるので、個人的には必須です。
このため自分は調べもの以外、本はなるべく所有するようにしています。
ちなみに新書はせいぜい1冊か2冊くらいで、他は大体ハードカバーの本ですが、
それは単純にBookOffでハードカバー本が安かったからです。笑


読んできた本を見直していて気が付いたことが3つあります。

文章量への慣れと、考える忍耐力



1つは、段々と文章量の多い本への抵抗が減ってきたことです。
当たり前のことかも知れませんが、やはり読んでいくにつれて活字そのものに慣れてきた感じがします。
特に村上龍氏の長編小説『半島を出よ』が結構な長さだったので
当初買うときは躊躇したのですが、それを読み終えてからは本の厚さはさほど気にならなくなりました。


ネットでは一つのことについて長く書いてあるということが少ないので、
文章に対する忍耐力みたいなものは少し強化されたような気がします。
ネットの場合、接する文章量自体は多いかもしれませんが
内容やテーマが分散していたり、考察がどうしても薄くなりがち(浅い/深いという意味ではありません)なので
一つのことを考え続ける集中力・忍耐力という点では、現状であれば本の方がつきやすいと思います。

硬い本へのシフト



2つめは、段々と内容の硬い本が増えてきたことです。
最初は対談本や芸能人が書いた本といった読みやすそうな本が多かったのですが、
最近は『福翁自伝(福沢諭吉の自伝)』とか『竹中平蔵大臣日誌』『9.11(9.11テロのレポート本)』
といった内容が多少硬めのものにシフトしてきました。


まだ学者の本などガチガチなものまでは行っていませんが、
いずれはそういったものを好むようになっていくような気がしています。
内容の記述に一定の厚みがない=裏づけの情報等が少ないものだと、
「どうしても論理が飛躍している部分」や「拡大解釈をしている部分」が多くなってしまい
アラが見えてしまうので、満足度が低くなってしまう傾向にあります。
一応、新聞も内容が表層的であるにせよ、目を通すくらいはしています。


この傾向は、3つ目の気付きとも関係があるような気がしています。

本は一冊一冊が違うもの



3つめは、段々と本が「それぞれ全く別質なもの」と分かってきたことです。
これは、最も重要な気付きだと思います。
このことは概念としては理解していたつもりですが、少しずつ感覚としても分かるようになりました。


例えば、ゲームでMMORPGといった場合は、ある程度こういったものだという”類型”があり
実際にプレイしてみても、予想と全く違うものだったということは少ないと思います。
それが本となると、事情が違ってきます。
見た感じは同じでも、そこに書いてある「内容・方向性・深さ」は一冊ごとに全く異なっています。
あらゆる表現物は、本以外でも確かに同じような側面を持っていると思いますが
本はその中でも特に広がりを持ったものであり、それが本の持つ強みでもあるのだと思います。


最近マンガやアニメの人気と共にライトノベルが若者の間で流行していますが
(明確なジャンル分けは難しいですが)これと文芸小説はやはり違いますし、
一般書や学者の本の中でも、それぞれは全く違うものです。
基本的に本の場合、形式は似ていると言えどもその中身に関して”類型”的なものはないと考えるべきです。
というのも、そもそも本は読者に「新たな」情報を提供するものであり
新たな情報というのは、その情報が今までの”類型”の外にある点に根源的な価値があるからです。

分かりやすいは、分かりにくい



また、読書量が増えていき、少しずつ深みが分かっていくようになると、
今度は「一見分かりやすい」は「逆に分かりにくい」ということに気付くようになりました。


以前読んでいたテキスト系サイトに、ちょっと関連した記事があったので張っておきます。
「わかりやすい説明」の危険性 http://simple-u.jp/pd200312.html#2003-12-21
ここでも少し触れられていますが、「一見分かりやすい」文章と言うのは
どうしても説明を省きがちなところがあり、その補完を読者に求める傾向にあります。
そうなると、省いた部分の説明があったら反論が生まれていた場合も
大筋で共感していれば、何となく分かった気になって流してしまうことがあります。
これは危険なことで、その場合本当はその文章を分かっていないということになるわけです。


例えば、「日本語は他の国の言葉に比べて難しいよね」といわれると、
なんとなく賛成してしまう人が多いのではないでしょうか。


これに、アメリカのFSIという国務省の語学研修用の外郭組織が”最も修得の難しい言語”のグループに
日本語を指定しているなんて言葉を付けると「ほらやっぱり」となってしまいます。
しかし、FSIは英語との比較においてランキング付けをしているので、
このグループ分けは基本的に英語話者にしか通用しません。
ここでの評価は相対的評価であり、日本語そのものの絶対的評価をしている訳ではありません。


体感的にですが、外国人と話すとどの国の人も「自分が使っている言語は難しい」と思っているようです。
人情として、自分が操っている言語は難しいことにしておきたいという背景があるのだと思います。


実際、言語というのは基本的に難しいものですし、「難しさ」は主観的な概念なので間違っているとは言いにくいです。
ただ、この場合はその共感の殆どの部分が自分が補完した情報によるものであることに注意する必要があります。
その補完した情報が正確なら問題はないのですが、それが主観的でバイアスのかかった情報の場合、
その共感自体の信頼性は、極めて怪しいものになります。

言語の難しさとはなにか



一般に、言語はネイティブと外国語学習者ではその言語の難しさの認識が全く異なります。
これには大きく2つの理由があると考えています。


1つは、ネイティブがその言語の学習過程において個々のケースと言葉をリンクさせ帰納的に把握していくのに対し、
国語学習者はまず客観的な事象を捉えそれを文法から演繹的に把握しようとする、という考え方の違いによるもの。
2つめは、外国語学習者の場合は第一言語(母語)にはない「感覚と直結した」概念を新しく導入する必要があること。


以前「日本語は難しい」と思っている友人に、どこが難しいと思うかと聞いたことがあります。
友人は、「”あめ”とか同じ言葉で違う意味になる言葉がある」「文法が英語と逆だし」
と言っていましたが、これならあっさり反論が出来てしまいます。
同じ言葉で違う意味なら、英語にも沢山あります。”spring”という英単語は「春・ばね・泉」という3つの意味を持ちます。
文法が英語と逆、というのは韓国語にも見られるSOV型の文法構造という意味と思いますが、これも沢山あります。
言語調査によると、世界の言語の45%はこのSOV型だそうです。
この友人の認識は、極めて曖昧といえそうです。


日本語の難しさの一つは、個人的には語尾の使い分けの難しさにあると思います。
理由の2つ目と関連するのですが、これは英語など欧米系の言語にはあまり細かい語尾が使われないことによります。
日本語だと相手との関係が語尾に出る上、そこにはかなり細かいニュアンスが含まれます。
「です・ます」といったあたりは分かりやすいのですが、この間友人に言ったことで「でしょ?」への違和感があります。


外国人は「〜, isn't it?」とか「〜, right?」の言いかえとして
よく「〜でしょ?」や「〜でしょう?」を使いたがります。ただ、言われてみると分かるかと思うのですが、
日本人的な感覚だと「でしょ」は強すぎるので、これを使いすぎると相手に悪い印象を与える可能性があります。
このような場合は、日本人は同意を求める表現を使うと説明しました。
具体的には「でしょ」を使わずに「〜だよね?」「〜じゃない?」を使ったほうが良い、と言っておきました。


上記のような例は、重要でありながら日本人的な「感覚」に基づくもののため、説明されないと気付きにくい内容です。
そもそも欧米系の人には語尾という概念すらないわけですし、
意味的には間違っていないので学習時に先生にも咎められにくいという事情もあります。
ちなみに、上記を逆の立場にすると日本人が好きな英語"i think 〜."となります。これは経験があるのではないでしょうか。
日本では相手に直接正しいか聞くことはあまりしないので、「自分は〜と思う」と言うことによって
その意味をかもし出そうとするのですが、残念ながら英語ネイティブはあまり読み取ってくれません。笑


それ以外にも、1つめの理由で言えば仮定の意味を持つ品詞「たら・れば・と」の使い方で、
「着いたら連絡して」は「着くと連絡して」や「着けば連絡して」にならない、
同じ着いたとしたらという仮定なのに、そこから演繹して考えると間違えるという事があったりしますが
長くなるのでこの辺にしておきます。。

分かりやすい文章が持つ危険性



気付いたら具体例が無駄に長くなってしまいましたが、つまりはこういうことです。


「一見分かりやすい」文章が求める”読者による情報の補完”は
バイアスがかかった主観的な情報によってなされる場合がある。
その「説明を省くことによって演出される分かりやすさ」は、その文章の理解に役に立っているようでいて
実は本質的に理解できていない場合を作り出すことがある。
その意味において「逆に分かりにくい」文章に陥っている場合があるということです。


しかも、読者はある程度感覚的に情報の補完をしてしまうので、
自分でも気がつかないうちに「曖昧な共感」をしてしまっている場合があります。
これは文章の理解において不都合であるだけでなく、誤った共感を生むという意味で危険ですらあります。


そんな訳で、そういったことに気付くにつれてしっかりと説明が書かれているもの、
結果として硬めだが比較的ちゃんとした文章を好むようになってきたと言うわけです。
これが上の方で3つ目の気付きと関連があると述べた部分にあたります。
硬ければしっかりと説明がなされていると直接関連付けるのは大きな間違いですが、
やはり下手に易しくしようとしている文章は曖昧な点が多く満足度も低くなりがちです。


さっきたまたまwikipediaの”日本語”項目を見て気が付いたのですが、
1.硬い文章は漢語が多く使われている。
2.和語よりも漢語のほうが意味する範囲が狭い
ということを考えると、文章の硬さと説明の細かさは多少は相関すると言えるかも知れません。
wikipediaはちゃんとした文章の場合の引用は避けていますが、
この”日本語”の項目は色々と書いてあって面白いですね。


ちなみに、比較的ちゃんとした文章に段々触れるようになると、
逆にそうではない表現物に対してどうにも見る目が厳しくなっている気がするのが、最近の悩みです笑

適当にまとめ



ということで、軽く自分の読書を振り返ってみました。


読書は良いものです。自分の活動の範囲を超えたことについて、理解をする一助になります。
そのことは、逆に新たなことをする際の手助けになるし、その敷居を下げることにもなります。
それに、単純に読んでると楽しいです。違う世界を見ることができます。


というわけで、皆でブックオフに行きましょう!笑




by Aricororisty