『小説 防衛省』 著者:大下英治

久々に読んだ本のレポートを。


今後は最後まで読んだ本については、出来れば一冊ごとに
blogに考察を書いていこうなどと考えています。


そういえば、以前書いたJALの文章は見返してみると、出来としてはうーむ。。
ポイントは書いたつもりだったのですが、文章としては論点がぶれてしまってますね。
普段書いているエントリは、実は公開後けっこうな割合で修正を入れているので
エントリ公開時と公開一週間後では実は別物になっている場合も多いのですが
これはむやみに変更するとますます収まりがつかなそうだと思い、修正は断念しました。。


個人的には村上隆の『芸術企業論』の文章がまあまあ良く書けたかなと
思っているのですが(ただし満足したせいで更新が止まったw)、
あのときは記事の中身がアートという謎のジャンルだったために
事前にあの本以外にも何冊か本を読んでいたり、
ネットで調べたり、かつ記事のメモもした上で取り掛かっていました。


そうした過程が、やはり文章にも反映されている気がします。
そう考えると、ある程度読める文章にするには、
当たり前ですがそれ相応の準備が必要なんだなと思わされます。

『小説 防衛省』について



さて、毎度前置きが長くなってしまいましたが、この本について。


この『小説 防衛省』の著者の大下英治さんという方は
元々政界・財界のルポを書いているような少しジャーナリスティックな部分が入った人のようです。
この小説も実際に登場人物の取材を通して得た情報・話を繋げて書いたような感じを受けます。
小説ではありますが、ノンフィクションのような感じもあり、
恐らく話のつなげていった部分が”小説的な部分”に当たるのだろうと考えています。


ちなみに、たまたま見つけた http://ryuji.org/hito_machi/20090318_oshita.php (衆議院議員のHPです)
のなかに「約50ページにわたり、私が取材でお話した内容はすべて、そのとおりに盛り込んで頂き」という
記述があるので、まったくの創作ということはないと思います。
そもそも実名を出しながら、その人の語りで適当なことを書いた場合は
名誉毀損で訴えられる可能性があるので、その辺は慎重に記述してあるだろうと思います。


章は「時の防衛省長官」と「重要な防衛省関連事象」をセットとして分けられています。
(「中谷元アメリ同時多発テロ」など)
章ごとに登場人物が変わると、それに伴い書かれる内容の方向性も変わっていて、
この人はこんな感じで話をしたんだろうなといったことがどことなく伝わってきて
臨場感のあるインタビューのような感じがして新鮮です。


全部で717ページもあり、まるで辞書のような小説なので
気になった章だけを読もうと思っていたのですが、
読んでみるとこれがなかなか面白い小説で、つい殆どの章を読んでしまいました。
正直なところ、国防についてはあまり考えたことがなかったのですが
村上龍の『半島を出よ』とあわせて、自分の中で国防についての考え方が全く変わってしまいました。


今回は、本の中で重要だと思った記述を取り上げながら
一部コメントを付していこうと思います(改行と注、強調はこちらで付け足しています)。

警察と不確実性への対処


(オウム事件自衛隊化学防護隊の話の中で)


オウムの仕業である疑いが強くなった時点で、
玉沢(注:当時の防衛庁長官)は上九一色村の教団への突入をはかる。
これにも後日談がある。警察はオウムの動きをすでにつかんでいた。
一日も早く施設に入るべきところだ。だが、警察には化学兵器対策の用意がまったくなかった。
このときは警察庁防衛庁に頭を下げ、防毒マスクの使い方を
土、日の週末二日間にわたっておこなっている。
その翌日の月曜日の朝に先制攻撃として行われたのが、地下鉄サリン事件だったのだ。


『小説 防衛省』 P.163より



これは知りませんでした。事件前に警察は情報を得ていたようです。
ネットで探してみたら、こんな記事を見つけました。↓
http://www.47news.jp/CN/201002/CN2010022101000511.html
こういった不確定な情報に対する対応、というのは難しいですね。
ストーカー問題でもそうですが、今の警察は事後対処が主な活動になっていると思います。
しかし事後の事件性が大きければ大きいほど、予防措置の効果が大きくなるのも事実です。


事件への対応には三つの段階が考えられます。
1.事件性をもつ情報の重要性を確定する段階
2.情報を元に警戒態勢を敷き、動き出しやすい状況にしておく段階
3.事が起きた後、実際に対処する段階


今は3が殆どだと思いますが、今後は1・2の重要性が高まっていくことが予想されます。
と言うのも、3の段階ではある程度対処に限界が生じてしまうのと
事後では時の経過と共に被害・捜索に係る社会的コストが飛躍的に上昇してしまうためです。


現在でも例えば大きなイベントや集会の時には2の意味で事前届出が必要になっていたりしますが、
今後はIT(GPS等)を利用することで個別の危険についてもより迅速に
対応が出来るようになっていくかもしれません。



専守防衛」という口実


(北朝鮮テポドン一号が発射されたときの海上自衛隊トップ、山本安正の考え)


山本は、装備面の不足と同時に、自身をふくめた防衛庁の思考方法にも注意を向ける。
戦後六十年間の歴史のなかで「専守防衛」という言葉が頭に染み込んでいると指摘する。
現実的な合理性がない「専守防衛」とは、政治用語に過ぎない。
が、一番怖いのは、実際の自衛官や内局の政策立案者が、その思考回路に陥ることであるという。
それと同時に、「専守防衛」とは、ある面では国民に厳しい試練を要求する考え方でもある。
突き詰めれば、ミサイル攻撃されて、自分の妻や子供や親という愛する人々を失ってもなお、
こちらから反撃しないという思想なのだ。山本は、日本国民にそこまでの忍耐力はないと見ている。


『小説 防衛省』 P.205より



専守防衛」という言葉は、素晴らしい言葉だと思います。
この言葉は、日本国が持つ国民に対する数少ないメッセージであり、
国の一種のアイデンティティを示しているように思います。


が、実務的に考えると「専守防衛」と言うのは対外的な口実です。
国防を考える際、この「専守防衛」という言葉は一度外して考えておかなければ
事が起きたときには正確な対処が出来ないだろうと予想します。
例えば、憤った国民が米国に敵国のミサイル基地への反撃を希望したときに、
専守防衛」だけを考えた自衛隊は十分な支援が出来ない可能性があります。


日本版の9.11など、いくつか個別の事例を想定してみると、
専守防衛」は理想であり重要でありながら、
実はとても儚い言葉であることが分かると思います。



マスコミと数字感覚


(アメリ同時多発テロ発生時の海上幕僚監部防衛課長、河野克俊の回想)


湾岸戦争のとき、(中略)アメリカのブッシュ大統領は、日本政府に対し、
同盟国として戦費の拠出と共同行動を求めた。
(中略)
湾岸戦争のとき、日本の対応は、アメリカから「トゥーレイト、トゥーリトル」(遅くて少ない)と
非難された。河野が思うに、特に問題なのは「トゥーレイト」である。
百三十億ドルもの巨額な資金を援助しても、対応が遅ければ評価されない。
現に湾岸戦争後、クウェートが参戦国などに対して感謝決議を出したが、
日本は、その対象にすら入らないという外交的屈辱を受けた。


『小説 防衛省』 P.312〜313より



当時の130億ドルは約1兆5000億円に当たります。
それほどの額を出しておきながら、まったく評価されなかったということです。
時間のことももっともですが、同時にこの額の具体的な根拠をマスコミは調査したのでしょうか。


最近小沢さん周辺の政治資金の問題がマスコミに多く取り上げられていますが、
4億という(相対的に見て)小さなお金の使途をとやかく言うことをやめて、
もっと大きい、例えば普天間基地問題の先延ばしによって生じている
機会損失でも試しに算出してみてはどうでしょうか。


いつも思うのですが、日本のマスコミは驚くほど数字感覚が欠けていると思います。
また、見えやすい小さな費用にばかり目が行って、
トータルで掛かっているコストの計算が殆ど出来ていないように見えます。



有事法制の意味


(石破茂自衛隊イラク派遣の章の中で)


石破は自民党国防族きっての政策通である。
有事法制が必要な理由についても明確な見解を持っていた。主に二つある。
一つは、いざ有事が起こった際に自衛隊を迅速に動かさないといけないから。
もう一つは、有事の際に民間人が戦場にいてはいけないからだ。
(中略)
民間人を犠牲にしないためにはいち早く危険を知らしめて、避難させることだ。
東京大空襲では、(中略)死傷者を十二万人も出した。
このとき避難していたのは学童疎開の子供達だけ。全東京市民のわずか15%に過ぎない。
女性や老人、病人といった非戦闘員は、ほとんど東京に残っていた。

        • -

これらの事例は、まさに当時の政府・軍部が有事法制とは何かがまったくわかっていなかった証拠だ。
国の指導者がすべきなのは、とにかく民間人を戦場に置かないこと。
これがまったく徹底していなかったことになる。

        • -

戦争が終結したあと、占領軍によって「なぜこんなにも多くの非戦闘員が犠牲になったのか」を
検証する調査が行われた。(中略)
調査の結果は分厚い『戦略爆撃報告』としてまとめられた。ここに書かれていることとは何か。
「日本政府は防空法という法律があったにもかかわらず、その所管を明らかにせず
国民を保護する思想にまったく欠け、その結果、こんなたくさんの人が死んだのである」という趣旨だ。

        • -

要は民間人を戦場から排除するという思想が貫徹されていなかったのだ。
戦場は、一種の狂気が支配する世界だ。そこに民間人がいれば、あるいは作戦に利用しようと
考える将校がいても不思議ではない。そういう上記を逸した世界に無辜(むこ)の民を
巻き込んではいけないから、有事法制が必要なのだ。


『小説 防衛省』 P.358〜360より

(石破茂有事法制に対するコメント)


「いざというときに自衛隊が迅速に動けず、国民は避難できない。
この事実を侵略者の側から見たら、どういうことになりますか。
『なんだ、そんな国なら、一つ攻めてみるか』と考えたとしても不思議ではない。
有事の際に自衛隊が動け、国民を退避させられる法律を整備しておくことが抑止力になるんです。(中略)」
これに反論する側の意見は、いつも決まっていた。
有事法制は、要するに戦争準備法案です。国民を戦に駆り出すためのものじゃないですか」
石破は、こうした紋切り型の反論にも丁寧に答えるよう努めた。
「それは違います。こういう法律がなかったから、太平洋戦争でも大勢の人が死んだのではないですか。
そういうことを防ぐための有事法制なんです。」


『小説 防衛省』 P.361〜362より



石破氏は一貫して国防に関する法整備の重要性を説いています。
国防を考えるに際して、実務上の規定がなければ自衛隊が機能しない。
当たり前のことですが、自衛隊は法的に(かなりの部分で)規制を受けていて、
実は一般の人が思うよりもはるかにその活動範囲は限られているようです。


それは第二次世界大戦における軍部の暴走の反省によるものですが、
現代の国防を取り巻く状況をみると、非現実的なものでもあります。
今は自衛隊の活動の認知と共に制度の改善がされて来ているようですが、
以前はそういった事実が一般に知られていなかったために
阪神大震災のときに出動が遅れたりといった事態も起こりました。
(自衛隊は準備できていたが県からの正式要請が来なかったために出動できなかった)


石破は、長官として海外に部隊を出す決断をした。法律上の「非戦闘地域」は、
「危険でないところ」という意味ではない。あくまでも憲法の禁じる武力行使に当たらないという意味であって、
非戦闘地域といえども危険であることは百も承知で自衛隊を出した。


『小説 防衛省』 P.399より




有事における「権限」と「責任」の重要性


(北朝鮮ミサイル発射問題と、BMD(弾道ミサイル防衛)システム導入のとき)


航空幕僚長を務めた吉田正によると、BMDのシステム導入は、「物」に関しては、
アメリカから購入して整備をすれば住むことである。問題は、発射権限の委任である。
北朝鮮がミサイルを発射した場合、日本に着弾するまでに十分とかからない。
弾道弾迎撃ミサイルを使用できる時間は、相手がミサイルを発射した三〜四分までである。
現行どおり首相に報告し決断を待っている時間はまったくない。

そのため、どのような条件の場合、誰に権限委任するのかを決め、自衛隊は部隊訓練を行わねばならない。
(中略)北朝鮮がミサイル攻撃能力をすでに持っているにもかかわらず、
今のままでは日本には対応する能力がなく、たとえ東京にミサイルが落ちてこようと、
自衛隊は黙ってそれを見ているほかない。


『小説 防衛省』 P.576より



有事の際は、「権限」と「責任」の所在が極めて重要になります。
即座に決断をしないと被害が猛スピードで拡大していくという状況において、
事前に誰がそのリスクをとり、その判断をするのかを明確化しておかなければ
最後の部分で国としての決断が出来ず、国防が機能し得ないということです。


上の石破さんのところで少し出ている通り、
昔の軍部は有事のための法律があったにも関わらず、
どこに「権限」「責任」があるのかが明確になっていなかったために
日本国全体に対して極めて大きな損害を与えました。


同じ性質の問題は、現在も存在しています。


例えば、「〜会議」といった合議体が持っている権限は
時間の制限上有事において機能するとは考えられず、
また事後の責任の追及も難しくなります。


緊急時、独裁政権であればトップダウンによる効率的な判断が可能ですが、
民主主義政権の場合は事前に十分な権限委譲が行われていない限り、
限られた時間内での効果的な決断は不可能であると考えられます。
日本は往々にして決定権限の所在を合議体に求めがちですが、
有事に際してそれは全く通用しないということです。


有事のことは事前に、かつ周到に考えておかねばならないことが多いですが
このような「権限」と「責任」の所在に関する議論は
今でも十分になされていないように感じます。



抑止力の条件


(上記と同じ頃、元統合幕僚長・竹河内捷次の高校生への講演の場面で)


平和は望むだけで何も考えない、何もしないでは維持できないんだ。
核兵器のことだって議論すべきだ。それを通じて、核廃絶のステップも見えてくるのではないか。
(中略)
広島出身の竹河内は原爆の悲惨さを知っている県民の
「核は嫌だ」という感情は十分承知している。
高校生に向かって言いたかったことは「悲惨で嫌な兵器だから、持たない」では
あまりに単純すぎるということだ
。そういうレベルで議論を抑えていると、
「核を持たなければならない理由」を二つ三つ並べられただけで、
逆に「核武装論」に一気に走ってしまう危険性がある。
なぜ核を持たなければならないのか。
その議論を徹底しておこなったうえでの「反核」であれば、そう簡単に覆ることはない。
(中略)
核を持つ目的は何か、も重要だ。多くの人は「抑止だ」と言うだろう。(中略)
だが、抑止と言うからには核を実際に使う覚悟がなければならない。
単に持つだけでは駄目なのだ。


『小説 防衛省』 P.578〜9より



この記述には、少しハッとさせられました。


抑止抑止といいますが、その抑止はあくまで相手方がこちら側に対して
その抑止の手段を使う可能性がある、と考えていなければ効果を持ちません。


軍事評論家の中には「日本は核を持つべきだ」という人が居ます。


しかし、「核が抑止力になる」状態とは、
即ち敵国側が相手から核を使われる可能性があると考えている状態です。
従って、実効力を持つ法的整備なしの単なる兵器の所有だけでは
抑止力として機能しているとは言えません。


”核”という危険な兵器の使用に当たっては、その影響力の高さから
他の兵器とは別に特別な法的制限が掛かってくると考えられますが、
攻撃的軍事行為に関して極めて抵抗の強い日本において
その有効な活用が可能な法律整備がなされるとは考えにくいです。


実際、有事における「権限」と「責任」の議論が十分でなく
ミサイル防衛システムさえ十分に活用出来ない状況の日本では、
核を持ったとしてもその使用が現実的ではなく、全く抑止力にならないだろうと推測されます。




続きます。




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