『希望の国のエクソダス』感想

非常に私事ですが、『希望の国エクソダス』を読み終えました。
422ページの長編小説でしたが、面白かったので結局計4日位で読み終わってしまいました。
小説の読書量が少ないこともありますが、個人的には今まで読んだ中で一番面白い小説でした。

考察の束としての小説



自分の中では小説という手法を通して表現した、
村上龍さんの現代への考察をまとめた本という印象を受けました。


たとえば、細かいところですが

勢力争いというのは、各派閥の政治的権力への固執によるものではなく、
単なるコミュニケーションの行き違いで発生する、というのがポンちゃんたちの考えだった。

とか

おれは、山方の話術に感心した。マナー違反についてはきちんと注意をし、
場が緊張したあとにユーモアでなごませる。ウェイターたちは山方に心服しただろう。
そのことを俺は山方にいった。すばらしい話術をお持ちですね。
すると山方は、話術ではないんです、と厳しい顔で答えた。
「引き出しみたいなものをたくさん持って、その中に、メモをたくさん用意しておく、ということです。
話術というのは当意即妙、みたいなニュアンスでしょう。
あるいは、人を惹き付ける話し方、のようなものだと思うのですが、意味ないですよ。」

こういった文章は、事前にそういった考察をしていないとまず書けない文章です。


このような現実に対する細かい一つ一つの考察を積み重ねていくことが、
小説的なリアリティ(写実的という意味ではない)が増すことにつながっていると考えています。

物語の中に見る、機関化する個人



ストーリーという点で見ると、「ゆっくりと死んでいく日本」に対して
現代の若者(中学生)が旧来の非効率を無視していかに道を拓いていくか、が鮮明に描かれています。
特に、若者が一貫して規定されたレールの社会システムの外で活動をしているという点は
物語の中の重要なキーになっていると思います。


読んでいると、独立した存在である中学生に対して、社会システムの中にいる人間は
常に一個人ではなく、そのシステムの一つの機関として存在しているかのように錯覚されます。


中学生に対してキャスターが質問をする場面で、

代表二人は顔を見合わせてから、あなたはどう思ったんですか?と逆に女性キャスターに聞いた。
(中略)女性キャスターは言葉に詰まった。(中略)個人的な感想を言うことはできないし、
ポンちゃんへの一般的な評価はまだ定まっていなかった。
結果的にアジア通貨基金を救ったわけだが、電波ジャックという犯罪を犯したともいえる。
民放の一キャスターが肯定したり、否定したりできる出来事ではなかった。

という部分があるのですが、この場合のキャスターは個人というより殆ど機関であると思います。
つまり、キャスターが喋っているというよりも、そこに覆いかぶさっている企業といった存在が
その社会的立場から自分(企業)にとって適切だろうと思われる言葉を選ばせている、ということです。


個人が社会的な肩書(立場)を背負った時点で、個人が機関になってしまうということは
既存の社会システムにとっては確かに都合が良いことですが、
一方でその個人が常に一定のシステムを前提とした存在となってしまうという意味において
それは同時に大きなリスクを孕んでいるように感じられます。


物語の中で中学生が「現在の中学校に通い続けることはリスクが高すぎる」と語ります。
これは、現在の教育は既存の社会システム(それは時流と乖離が生じ始めている)を前提としたもので
そこに最適化された人材は教育を終えた時点で既に使い物にならなくなっている可能性が高い、
ということを指摘したものだと考えられます。


上記と関連させるなら、既存の社会システムの中で自己を機関化してしまうことは
そのシステムの衰退の流れに身を投じることと同じであり、
それは個人にとって高リスクであると判断した、ということです。


これは高度経済成長期の余韻を未だにひきずっている日本にとって
重要なメッセージだと思います。

現代の希望としての『希望の国エクソダス



この小説は、村上龍さんが思う「現代における希望」を示したものだと思います。


閉塞感の漂う日本において、現在ある手法を使ってそれを破っていく。
恐らく、これは龍さんなりの若者へ向けたエールなのだと思っています。


それが実現できるかは、今の若者がある程度の組織力を持って力をつけていけるか、
その行き先を見据え続けることができるかに懸かっているような気がしました。




by Aricororisty