小説とメッセージ性、とニュース

最近、村上龍著の『希望の国エクソダス』という小説を読んでいます。


普段あまり小説は読まない方なのですが、違うジャンルの本を読む気分転換に
有名かつ105円のものwについては読んだりもしていて、この本もその内の一冊でした。
まだ読み途中なのですが、なかなか面白い本だという予感がしています。


その理由は「小説の節々から強いメッセージ性を感じる」ためです。


自分の中で、表現物には全てメッセージがあるべきだという考えがあります。
それは、人が"敢えて"表現するというからには、
何らかの理由・動機がなければそもそもその必要がないと考えるからです。
伝えるということが、伝えたいものがあって初めて成立するように
表現も表現したい内容があるからこそ表現として成り立つように思います。


そう考えると、小説は
「物語という架空のストーリーを利用することで読者に仮想体験をさせ、
その体験を通じてメッセージを(暗に)伝えていく」表現方法であると捉えられます。


自分の場合、それが煩わしく感じられることもあって(メッセージがあるなら直に伝えてほしい)
小説を敬遠しがちなのですが、この『希望の国エクソダス』からは著者のメッセージが
直で伝わってくるので、読んでいて面白いです。


小説という表現方法の利点としては
①感情的に入りやすい
②具体性がある(現実性とは別)
といった点があると考えており、2つの利点を一言で言い換えるなら
「(一般的な論説文よりも)身近に感じやすい」ということだと思います。


しかし、自分としては、小説は論説文よりも注意して読むことが必要だと思っています。
上記2つの利点には"なんとなく分かった気になる"ことを助長してしまう側面があるためです。
①があることで感情を動かされれば実際の理解に関係なくわかった気になってしまいやすいし、
②の具体性が逆に抽象的なメッセージをぼかすことにつながる場合もあります。


日本の小説であれば、日本語さえ読めれば物語を一つの話として流れを理解することは出来ます。
ただ、そのことは物語を理解したということとは別の話です。
「物語を理解する」ということは、「物語のメッセージを理解する」ことだからです。


もちろん、そのメッセージは必ずしも"筆者が作品に込めたもの"である必要はありません。
(筆者のイメージが文章という道具を利用して作品となった時点で違う解釈が可能になるため)
ただ、そのメッセージ作り手の意図したものであるかどうかは別としても
メッセージを受け取ることが表現の受け手にとって重要なファクターである以上、
表現物自体がもつメッセージ性が重要であることには変わりはありません。


メッセージが分かりやすく、またメッセージ自体が秀逸なもので
表現方法の利点をうまく使ったものは当然ですが良いものになっていると思います。


(追記:
マンガや映画といった映像作品が本に比べて内容が薄い娯楽と批判されやすいのは、
小説の①②の特性が、マンガや映画ではより強く出ていることによって
作品の持つメッセージへの理解が軽視されやすくなりがちだと捉えられているためだと考えています。


自分は内容・メッセージが良いものは表現方法に関わらず良いものだと捉えていますが、
21世紀少年を書いた浦沢直樹が「読者の人の関心がともだちの正体ばかりに気がいってしまうのは悲しい、
もっと大事なことがあるはず」と言っていたように、確かに表現の受容側の層に多少の差があるような気はしています。)




上記に関連して思うのは、最近のニュースのメッセージ性の薄さです。


ニュースは新しく起きた重要な社会変化を伝えることを主としていますが
それが表現物である以上、そこにも何らかのメッセージが込められているはず(べき)です。
メッセージがあまりに分からないもの、そもそもメッセージが存在しないものは
自分の場合、その事象の大きさに関わらず表現としての価値が殆どないと考えます。


例えば殺人事件の報道。殺人事件は事の大きさとしては大きいと思います。
しかし、「人は殺さないようにしましょう」以上の意味(メッセージ)を持つ報道は
現状殆どないと考えています。それだけのメッセージなら、誰だって言われなくても分かることです。


新聞・TVの報道が面白くないのは、新たなメッセージ性を感じないためです。
特に、新聞の抱える問題は「新聞を読んでも新しい発見が少ないこと」だと思います。


載っている記事が、読んでも「はい、その通りですね」という内容ばかりで
言われなくても分かりきったようなメッセージの記事が羅列されています。
そもそも、長期的に見なければ意味のないものをニュースだからといって
一時的な変化を持ち上げて煽ることに意味があるとは思えません。


新聞社は若者の新聞離れを「活字離れが進んでいるから」などと評していますが、
原因はそんなことではないと踏んでいます。活字離れが進んでいれば、blogを読む人も減っているはずです。


また、新聞では「主観の入っていない中立的な記事・情報が大事」と言われているようですが
まず記事として載せるかどうかの時点で、主観が入ってしまっています。
今新聞に求められているのは、"中立"などという言葉でごまかすのではなく
「主観が入っていることを認め」「なぜそれが重要であると考えたか」を明示することではないでしょうか。


それは、ある記事のメッセージを説明することと同義です。


重要であると考えた価値基準を明示し、その基準にどのような背景があるのかが分かれば
その記事の持つメッセージ・意味は自ずと分かるはずです。
重要とされる記事も、どのような意味で重要なのかが分からなければ重要とは言えません。


最近読んでいて面白いものとして、Courrier Japonという雑誌があります。
読んだことがある方も多いと思いますが、この雑誌は「なぜその記事を載せたのか」が明確で、
内容自体も他とは一線を画すもので読んでいて面白いです。


ビルゲイツがTimes紙に寄稿した創造的資本主義(Creative Capitalism)の話とか
少し前に話題になった村上春樹イスラエルでのスピーチは、特にメッセージ性に富んでいて面白かったです。


とまあ、こういうことを『希望の国エクソダス』を読んでて思いました(´・ω・`)




by Aricororisty