ゲームの視点、RPGとゲーム性

今日ふと、かなり前に発見して衝撃を受けたあるゲームのサイトのことを思い出しました。
もう見つからないかなと思いつつも(どうやってそこに辿り着いたのかも思い出せない)、
思い出せるキーワードで久々に検索をかけたら、奇跡的にそのサイトを発見することが出来ました。


沢月亭(ゲームを語ろう)
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/


です。ゲーム評論的な文章を載せているサイトなのですが、
このような視点をもってゲームをプレイしているということ自体が
当時の自分にとって極めて新鮮に映ったのをよく覚えています。
ゲームという対象に対して、こんなに考えている人がいるということに驚いたし
元々考えることが好きだったということもあり(今でもそうですが)、
サイトを見つけた当時は特に興奮しながら読んでいたことを思い出します。


その中でも特に好きな文章の一つが、


ゼノギアス論1
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/sawa/xeno1.html


です。実はGoogle検索では「ゼノギアス 小説 物語」で検索をかけました。


これはゼノギアス(PS)というゲームが後半モノローグ形式で進み、
まるでプレイヤーが関与しないかのような形で(小説のように)進んでしまうことに
焦点をおきながら、RPGという形式の限界について述べた文章です。


この論点について、自分自身も少し考えてみました。


上記の筆者も少し語っていますが「何故ゼノギアスはゲームとして語られなければならなかったのか」
という問いに関して、そこに”RPG”と”小説”という形式の葛藤を見たような気がします。


RPGと小説はある決められた物語の中で登場人物に感情移入して仮想体験をしたり、
あるいはそれを達観して流れを楽しむといった部分では、ある程度同じ役割を果たしていると思います。
しかし、大きな違いがあるとすればそれは「物語の体験」の程度であり、
それは受け手側、つまり小説であれば読み手、ゲームであればプレイヤーが
何らかの形で作品に対して主体的に干渉するか否か、という部分にあると考えています。


小説の場合、いくら読み手が登場人物に感情移入していても、
それは見せられた物語を受動的に受け取る以上のことにはなりません。
しかし、RPGはその性質上、プレイヤーが主体的に何らかの形で物語、
そこまでいかなくともそこに現れる何かを動かすことが前提となっています。
ゲームという形式の特徴は、プレイヤーが単なる受け手ではなく
極論すれば物語の世界の作り手として参加しているという点にあります。


しかし、一方でこのことはゲームの「本来の」作り手である
製作者からすれば厄介なことでもあります。
なぜなら、それは自分が作ろうとする世界(物語)に、
どのような行動をするか分からない別の作り手が入ってくることに等しいからです。
但し、もちろんこれには嘘があって、実際には製作者側は「どのような行動をするか分からない」
という点に関してはプログラムによってその行動を制限することが可能なため、
あくまで自分の意図した物語の中で、その物語を壊さない形でプレイヤーに自由を与えることになります。


RPGは、基本的には「ある”決められた物語”を追体験をしてもらう」ことを目標としているので
あまりその”決められたはずの物語”に干渉されると製作者としては困る訳です。


しかし、このことは同時に一つの矛盾を孕んでいます。
それは、製作者はRPGとしての目標達成のために自らの”決められた物語”を崩されないよう
プレイヤーの自由を制限し、物語への干渉を減らそうとしますが
一方でそのことがRPGの持つゲーム性の否定につながってしまっている、ということです。
言ってしまえば「プレイヤーが物語に干渉出来ないゲームは既にゲームではない」ということです。
そして、ゲーム性を否定したRPGとは殆ど小説そのものを指します(ゼノギアスにおけるモノローグは小説に極めて近い)。


なぜなら、ゲームという形式を特徴づけるのは「プレイヤーによる物語への干渉そのもの」であり
逆にいえばプレイヤーによる作品への干渉可能性それ自体がゲーム性の支柱であるからです。


もちろん普通のFFやDQのような王道RPGでは小説まではいかず、
その一歩手前の既に決定した物語に沿って進みながら「物語をなぞる」という形態をとり、
プレイヤーに託されるのは「進むか、死んで留まるか(Game over)」の2つとなります。
物語は予め構築されており、小説で言う「ページをめくる」行為だけをプレイヤーに任せているということです。
そう考えると、実は現在の王道RPGは”物語における”ゲーム性という観点から見ると
かなり低次元で成立していることになります(物語に全く干渉出来ないという点で)。*注1


そこで生まれるのがプレイヤーの選択による物語の分岐となるのですが、
これは”新たな物語の作り手”の進入を許すことでもあり、
そのとき生まれる物語は既に本来の物語の作り手である製作者の意図と違ったものになる可能性があります。
だからこそ、何らかの確定した意図やメッセージを伝えようとする製作者の場合、
物語の変化を恐れてプレイヤーの自由を制限し、小説に近い形式を取ろうとするのではないでしょうか。


そんなことをゼノギアスというゲームから考えました。


よくよく考えてみると、ゲーム性がプレイヤーの自由によって規定されるのだとすれば、
現在のRPGという形態そのものが、ある種の限界を既に内包してしまっているような気がします。
単にRPG=ロールプレイングゲーム=なりきって遊ぶゲームなので、
本来の定義ではRPG自体が本質的に上記の矛盾を作り出しているわけではありませんが
事実上、今あるRPGは既に物語が決まっているものが多いので
一つの決められた物語をプレイさせている限り(物語を”なぞらせている”限り)
今以上の(物語という観点から見た)ゲーム性の向上は難しいのかな、と考えました。


じゃあゲーム性の高いゲームはどういうものなんだろう、という話になるわけですが、
それはまた次の機会に記そうと思います。




注1:これはあくまで”物語における”ゲーム性の話です。
   現在のRPGにおいては、唯一の選択肢である「進むか、死んで留まるか(Game over)」
   の部分において、様々なシステムを用いてこのプロセスをいかに多様化させるか
   という点に重点を置いて作られているように思います。




by Aricororisty